『放浪息子』という漫画
志村貴子の漫画『放浪息子』を読んだ。
これは、女の子の服が着たい男の子と、男の子の服が着たい女の子の物語。つまり、LGBT の中のいわゆるクロスドレッサー(異性装者)の物語だ。

『放浪息子』は2人の主人公からなる。「二鳥くん」は女の子みたいな男の子で、二鳥くんのお姉ちゃんみたいな女の子の服を着たいと思っている。一方、同級生の「高槻さん」は男の子みたいな女の子で、男子みたいに男の子の服を着たいと思っている。服だけではない。二鳥くんは声変わりしたくないし、高槻さんは胸が大きくなりたくない。ただし、性的対象は2人とも異性である。
物語は二鳥くんと高槻さんの小学生時代から始まり、中学生時代が中心となる。志村貴子の柔らかいシンプルな絵柄で、暖かいごく普通の家族・学校風景が描かれる。ただ、主人公2人にクロスドレッサー嗜好がある。その中に長い髪の「千葉さん」という「自己中気味の情緒不安定女子」(1巻プロフィールより)が混ざってきて、子どもらしく仲良くなったり仲がこじれたりする人間関係が展開されていく。
そして、これまでの明るい基調にときどきシリアスな暗さが混ざるだけで読者を不安にさせなかったこの物語は、9巻で反転する。クロスドレスを親しい友達にだけ隠していた二鳥くんが、思い立って、女装して学校登校した結果、学校全体と家族からドン引きされる。その重く暗い展開は圧巻だった。何年ぶりか、物語で泣きそうになった。あの少年の姿には見覚えがあった。救えなかった少年、あれ以降事実上死んだまま生きている少年、あれは過去の、過去の自分だ………。
この段階では何もかもが好きな漫画だったが、11巻くらいからの展開は個人的にいただけなかった。作者はこれほどまでに重いテーマに実直に向き合って描いておきながら、結局のところ何も言っていない。何も解決していない。高校生になって少年から青年に近づいていった主人公たちは脇役と付き合って、互いの道を進み出して、おしまい。
それでも『放浪息子』は、LGBT という社会的マイノリティの苦悩と、彼らの自己アイデンティティの尊重とを描いた良作だった。終盤までよければ傑作だった。
サンノの『アッパーリップス』(参照)という同性愛ウェブ漫画の傑作では、作品の前向きな結末に相反して、物語中盤で平凡な真実が披露される:
「まともじゃない。だから色んな所がゆがんできてるんだ!」
これは、異性愛者の主人公マドカ(女)が、同性愛者のモモ(女)と付き合うことになったものの上手くいかなくて、辿り着いた台詞だ。 「まとも」というのは、社会が線引きしたものだ。社会の定義によって、アブノーマルな人間はみんな歪んだ人生を余儀なくされる。マイノリティというだけでまともでなく歪まされる、といえば人権や平等を訴える人々には許しがたいだろうが、許す許さないと無関係に、当事者にとってみれば、それはただの事実として現れる。