ディックの『暗闇のスキャナー』、読んだ
今年のはじめ、フィリップ・K・ディックのSF 長編『暗闇のスキャナー』を読んだ。
この傑作についてまだ整理がついていないのだけれど、それでも書いておこうと思っている。

I フィリップ・K・ディックについて
フィリップ・K・ディックは、アイザック・アシモフ、アーサー・C・クラーク、ロバート・A・ハインラインという SF のビッグスリーより後の世代の SF 作家である。彼は現代文学的な領域にまで踏み込んだテーマを扱って、多方面に強い影響を与えた。リドリー・スコット監督の伝説的な SF 映画『ブレードランナー』がディックの代表作の1つ『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を原作としているというのは、その中の一番有名な事例にすぎない。

ディックはずっと SF を書いてきた。中期には前述の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968) や『ユービック』(1969) といった傑作長編も書かれた。そして後期に入る『暗闇のスキャナー』(1977) は、一応 SF 的設定は付随しているがほとんど SF の意味はない。その後、ディックは『ヴァリス』(1981) をはじめとする神学的主題の問題作をいくつか書いて、そして、1982年に死んだ。
II 『暗闇のスキャナー』について
『暗闇のスキャナー』はちょっとよく分からない小説だ。あらすじを引用してみる。
どこからともなく供給されるドラッグ、物質Dがアメリカ中に蔓延していた。覆面麻薬捜査官ボブは捜査のため自らも物質Dを服用、捜査官仲間にさえ知らせずに麻薬中毒者のグループに紛れこむ。だがある日、彼は上司から命令をうけた。盗視聴機を仕掛け、ボブという男を――彼自身を監視せよと。彼は命令に従うが……。
フムン。「覆面捜査官が自分自身を捜査せよと命ぜられる」というのは、面白い展開だ。テーマとしても、自分自身を捜査することで「自分とは、自分だと思っていた者とは何か?」というアイデンティティの問題に結び付けられる。普通の良作の予感がする。
しかし、実際に読んでみると、物語の興味はそんなところにない。SF 要素もほとんどない。
覆面捜査官の主人公ボブの周りには、ドラッグにハマった男女が、脳髄をバカにさせて刹那の人生を楽しみ苦しんでいる。ボブもまた、物質Dを摂取しながら、仕事をしながら、日々をもがき苦しんでいる。そんな中で彼の望みは、マリファナをやっている黒髪美人のドナを抱くこと、それだけだ。そういう話がずっと展開している。
『暗闇のスキャナー』はノワール小説か、恐ろしいほど冷たい失恋小説のように読める。ボブは、人生をかけて愛した女に裏切られる。必死でやった仕事にも裏切られる。自分という存在そのものにも裏切られる。何重にも裏切られて、最後には仕事に精神を崩壊させられて、転がってヘドを吐いてドロドロになった「白痴」(ドストエフスキー)の物体と化す。
そのボブが精神を崩壊させる直前に、ドナが彼に対して優しく話しかける。その一連の言葉は、圧巻で感動的だ。しかし、ボブを素気なくフったドナが、ボブにそんなに優しいはずはない。だから、作者ディックが登場人物ドナを借りて、この言葉を言いたかったんだろう。どんな言葉も慰めにならないほど絶望を食らわされた男に。
「あなたはいい人よ。すごく悪い取引にはめられたのよね。でも、あなたの人生が終わったわけじゃないわ。あなたのことはすごく気になってる。できたら……」ドナは、暗闇の中で黙って彼を抱きしめていた。暗闇は、彼を内側からのみこみつつある。こうしてあたしが抱いている間にも。「あなたは優しいいい人よね。あなたにしてみればこんなのあんまりだけど、でも、しかたなかったのよ。できれば最後まで待ってみて。いつか、ずっと先になったら、前みたいに物が見られるようになるから。またもとどおりになるから」回復するわよ。いつの日か、人々から不当に奪われた物がすべて回復される。千年かかるか万年かかるか。でも、その日は必ずやってくる。
やってくるわけがない。しかし、このセリフのためだけに『暗闇のスキャナー』を読んだ。
読み終えたあと、死ぬよりも生き抜いてこのくだらない絶望を食べ尽くしてやろう、と思った。
III 『暗闇のスキャナー』の翻訳について
元々、『暗闇のスキャナー』は創元推理文庫から山形浩生訳で出た。ディックなどの小説の翻訳のほか、ポール・クルーグマンなどの書いた経済書の翻訳、オープンソースソフトウェア開発の古典的論文エリック・レイモンドの「伽藍とバザール」などの翻訳も手がけた、評論家である。軽快な文体の訳は多少好みが分かれるものの定評がある。
その後この本は絶版にされて、ディックをはじめとする数多の現代 SF を翻訳した浅倉久志訳でハヤカワ文庫SFから出版され直した。タイトルは原題 (A Scanner Darkly) そのままの『スキャナー・ダークリー』に変わった。僕は浅倉訳が基本的に読みづらくて好きでないから、『スキャナー・ダークリー』を買ったあとわざわざブックオフで『暗闇のスキャナー』を買い直した。
どちらがいいかと言えば、どちらも最良でないと思っているが、山形訳の方がよいと思う。ちなみに山形訳の『暗闇のスキャナー』は訳者本人が PDF で公開している。