岡田英弘『歴史とは何か』

岡田英弘の『歴史とは何か』(文春新書)を読みつつ、メモをとる。

岡田英弘(1931-2017)は歴史学者で、東京外国語大学名誉教授である。“その研究は、満洲史、モンゴル史、中国史、日本古代史、韓国史と広汎にわたり、西洋史をふくむ世界史におよぶ。"(岡田英弘プロフィール,岡田宮脇研究室より)史学の「史」の字の一画目も知らないようなわたしからすると、岡田について何一つ評することはできないので、岡田が書いた主要著作の流れを淡々と見てみる。

1976年、『倭国の時代 現代史としての古代史』(文藝春秋)を出した。これは現在、ちくま文庫から『倭国の時代』として刊行されている。“世界史的視点から「魏志倭人伝」や「日本書紀」の成立事情を解明し、卑弥呼の出現、倭国王家の成立、日本国誕生の謎に迫る意欲作。"(https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480425393/)

1977年、『倭国 東アジア世界の中で』(中公新書)を出した。“本書は中国の史料を基礎に、確実な事実を積み重ねて、日本をとりまく国際情勢を把握し、東アジア全体の民族の興亡と政治の動態、大陸から日本にまで及んだ壮大な商業ルートを明らかにし、華僑の来日とその背景、卑弥呼の王権がどのような状況で成り立ちえたかなど、意外なドラマを展開する。大きな流れを踏まえた視点で『日本書紀』の伝承に新たな光をあてて日本古代史の謎に大胆な解釈を加え、日本民族と国家の誕生過程を描く。"(https://www.chuko.co.jp/shinsho/1977/10/100482.html)

これだけ見ると『倭国の時代』と『倭国』の違いがよく分からない。それから20年近くあとの1994年、『日本史の誕生 千三百年前の外圧が日本を作った』(弓立社)を出しているが、これも同様の主題に思われる。これは2008年、ちくま文庫から『日本史の誕生』として文庫化されている。

1992年、『世界史の誕生』(筑摩書房)を出した。これも現在、ちくま文庫から同名で文庫化されている(1999)。“世界史はモンゴル帝国と共に始まった。東洋史と西洋史の垣根を超えた世界史を可能にした、中央ユーラシアの草原の民の活動。"(https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480035042/)

1997年、『妻も敵なり 中国人の本能と情念』(クレスト社)を出した。これは2001年、2001年の『この厄介な国、中国』(WAC BUNKO)として改題改訂している。

2004年、『中国文明の歴史』(講談社現代新書)を出した。“中国とはどんな意味か、そしていつ誕生したのか? 民族の変遷、王朝の栄枯盛衰や領土拡大を軸に、中国の歴史をわかりやすく教える。まったく新しい中国史の登場。"(https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000147221)

中国史についての著作としてはほかにも、2006年の『誰も知らなかった皇帝たちの中国』(WAC BUNKO)などがある。

最後に、2001年、『歴史とはなにか』(文春新書)を出した。


歴史の定義

まず、本書では、著者の旧書である『世界史の誕生』を引用して、歴史を定義する:

歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことである。

歴史のない文明の例

そして、輪廻転生の思想があるインド文明は「歴史のない文明」だとする。神の意志がすべてであるイスラム文明も「歴史のない文明」のはずだが、地中海文明に対する対抗文明である都合上、多少歴史を持たざるを得ず、「歴史の弱い文明」となったとする。「アメリカ独立の以前に、土着のアメリカ王とかいうものがあって、それがアメリカをたばねていたわけでもない。なんのまとまりもなかったところにつくられた国だ。そもそものはじまりのところで、歴史と絶縁して出発した、歴史を拒否した国である」ところのアメリカ文明も、歴史がないとする。

中国文明とはなにか

国民国家という観念が十九世紀に発生してから、国家には国史が必要になってきた。それで、いまではあらゆる国で国史を作りはじめているが、十八世紀までの世界では、自前の歴史という文化を持っている文明は、たった二つしかなかった。一つは中国文明で、もう一つは地中海文明だ。

国民国家以前からもちろん国々はあったわけだが、国民国家によって国史が必要になった理由がよく分からない。確かに国民国家によって国に対する市民の意識ががらっと変わったんだろうけれど、わたしは知っていない。あとで話があるかもしれない。

中国の歴史文明を創りだしたのは、司馬遷という紀元前二世紀の末から前一世紀のはじめにかけて書いた『史記』という書物である。『史記』は、中国のいわゆる「正史」の最初のものであり、その体裁と内容が、後世の中国人の歴史意識と、中国人意識を決定した。

司馬遷が『史記』で書いているのは、皇帝の正統の歴史である。

地中海文明とはなにか

中国文明の歴史という文化を創った司馬遷の『史記』に対して、地中海文明の歴史を創ったヘロドトスのほうは、『史記』とはまったく枠組みの違う歴史だ。

 この『ヒストリアイ(歴史)』の序文でヘロドトスが言っていることは、三つの点に要約できる。
 一は、世界は変化するものであり、その変化を語るのが歴史だ、ということ。
 二は、世界の変化は、政治勢力の対立・抗争によって起こる、ということ。
 三は、ヨーロッパとアジアは、永遠に対立する二つの勢力だ、ということ。

日本文明の成立事情

当時の情勢では、いまにも唐軍が日本列島に上陸して、そこの住民を整復し、中国領にする危険がさし迫っていた。それは現実の危険だった。その危険を防ぐために、日本列島に住んでいた倭人たちと、出自がいろいろ違う華僑たちが団結して、倭国王家のもとに結集した。こうしてそれまでの倭王は、外国に対しては「明神御宇日本天皇(あきつみかみとあめのしたしろしめすやまとのすめらみこと)」と名のり、律令(『近江律令』、六六八年制定)や戸籍(『庚午年籍』、六七〇年作製)を整備し、天皇の宮廷に太政大臣、左大臣、右大臣、御史大夫の中央官職を置き、冠位・法度を施行する(いずれも六七一年)ということになった。この「日本天皇」の出現が、ふつうに日本の建国と言われる事件である。

 中国文明は歴史のある文明だから、それに対抗して独自性を確立しようとすれば、中国文明の有力な武器の一つである歴史を、日本文明も持たなければならない。
 そこで『日本書紀』という、日本で最初の歴史が書かれることになった。
 天武天皇が歴史の編纂を命じたのが六八一年、『日本書紀』三十巻が完成したのは七二〇年で、三十九年かかっている。

神話をどう扱うか

確かに『古事記』には、七一二年の日付のある序がついているが、その『古事記』の、太安万侶の序なるものは、『古事記』の本文とは関係がない。序文の内容には、すでに賀茂真淵が指摘しているように、かずかずの怪しむべき点がある。あれはおそらく、多朝臣人長がつくって、くっつけたものだろうと思うのだ。
『古事記』の序文がどうして信用ができないか、という理由については、拙書『倭国の時代』(朝日文庫)の第六章で、くわしく証明してあるから、これ以上、踏みこまないことにする。実際、『古事記』の内容には、『日本書紀』にないことがらというのはあまりなくて、ほとんどが『日本書紀』をもとにして、わかりやすく言いかえたものなのだ。
 ところが、もともと、平安時代の学者、多朝臣人長が、自分の祖先の太朝臣家の系譜にもったいをつけるためにつくったと思われる『古事記』を、困ったことに、江戸時代になって、本居宣長が『古事記伝』四十四巻という大作を書いて過剰に宣伝をした。本居宣長は大学者だったので、『日本書紀』にあるいろいろな伝承を、注釈の形で、『古事記伝』の本文のなかにくり入れてしまったので、後代の学者は、もとの『古事記』を読まず、『古事記伝』だけを使うようになった。

「魏志倭人伝」の古代と現代

ここは何が言いたいのかよく分からない。

隣国と歴史を共有するむずかしさ

歴史はほんらい、どういう性質のものであるか、ということまでもどって、地方的な、地位的な偏りを、完全に排除した歴史をつくらなくてはならない。

作らなくてはならない、というのは簡単ではないか。といってもわたしもそういうことを言うことがよくあると思うんだけど、やっぱり実際に作り上げてみせるしかないんじゃないのか。

時代区分は二つ

第一は、現代史では細部が問題になるが、現代以前の歴史は細部に入りこまないようにして、全体に流れをつけて理解しやすくするという点、第二は、現代史は、国民国家の時代の歴史であり、国民国家は十八世紀の末までは存在しなかった、という点だ。

(前略)結局、人間が時間を分けて考える基本は、「いま」と「むかし」、ということだ。これを言いかえれば、「現在」と「過去」、さらに言いかえれば、「現代」と「古代」、という二分法になる。二分法以外に、実際的な時代区分はありえない。

古代史のなかの区切り

まず世界史の期限だけれども、これは、私が『世界史の誕生』のなかで書いたとおり、十三世紀にモンゴル帝国がユーラシア大陸の東西にまたがって成立したときから、世界史がはじまる、と考えればいい。それ以前は世界史以前の時代だ。

十二世紀までは、歴史のある二つの文明、中国文明と地中海文明のあいだには、ほとんど接触がなく、とりたてて意味のある関係も生まれていなかった。

 モンゴル帝国は、東アジアから、北アジア、中央アジアをとおって、東ヨーロッパ、西南アジア、南アジアに通ずる「草原の道」を支配し、平和と秩序をうちたてて、人と物の交流を盛んにした。その結果、東の中国文明と、西の地中海文明、および地中海世界と隣り合わせの西ヨーロッパ文明が、はじめて直接に結びつき、たがいに影響し合うようになるという現象が起こった。(後略)
 このほかに、十三世紀のモンゴル帝国が、世界史のはじまりだというのには、さらに第二、第三、第四の理由がある。
 第二の理由は、モンゴル帝国がユーラシア大陸の大部分を統一したことによって、それまでに存在したあらゆる政権がいちどご破算になり、あらためて、モンゴル帝国から新しい国々が分かれることになった。(後略)
 第三の理由は、十二〜十三席の金帝国の時代に誕生していた資本主義経済が、草原の道をとおって、地中海世界へ伝わり、地中海世界からさらに西ヨーロッパ世界へと広がって、現代の幕を開けたことである。
(中略)
 最後の、第四の理由は、モンゴル帝国がユーラシア大陸の陸上貿易の利権を独占してしまったため、その外側に取り残された日本人と西ヨーロッパ人が、活路を求めて海上貿易に進出したので、歴史の主役がそれまでの大陸帝国から、海洋帝国へと変わっていったことである。

国民国家とはなにか

アメリカ独立以前の世界には、政治形態としては君主制と、ヴェネツィアやフィレンツェのような自治都市しかなかった。いまのわれわれが考えるような国家というものは、まだなかったのだ。

(前略)特定の君主の財産の土地や、自治都市の所有地がたくさんはさまっていて、ここから内側はすべてこの君主の財産、というようなはっきりした境界線など、どこにも引きようがなかった。というわけで、国境線がないのだから、ひと続きの国土というものもなく、国家など、存在しようがなかった。
 そういう状態のところで革命が起こると、市民が王から乗っとった財産、つまり「国家」は、だれのものか、ということが問題になる。(中略)そこで「国民」という観念が生まれて、「国民」が「国家」の所有者、つまり主権者だ、ということになった。「国民国家 (nation-state)」という政治形態は、このときはじめて生まれたのだ。

そろそろ結論になるが、「よい歴史」は世界史でなければならない。国史は「悪い歴史」だ。

結語

最後にもう一つ。いまの世界には、国民国家どうしのあいだの衝突や、利害の対立があるが、すくなくとも、公平な「よい歴史」が書けてさえいれば、そういうものはかなり中和できるだろう。


ということで、読んだ。うーん、たぶんこれを読むよりは『世界史の誕生』、『日本史の誕生』、『中国文明の歴史』あたりの3作を読んだ方がよいんだろうという気がする。確かに『歴史とはなにか』は世界史についても日本史についても中国史についても語っているが、さすがに分量が短すぎる。『世界史の誕生』だけは昔読んだが、もうなかば忘れているし、今手元にないので再読できない。

ただ、国史は悪い歴史だと言いつつ、日本史や中国史を語っているのは少し矛盾じみている。いや、これは実際は矛盾というより「よい歴史」=「世界史」的な目線で日本史や中国史を捉え直しているのだが、それにしても思ったほど「よい歴史」=「世界史」的な目線にはなっていない。晩年だからなのか、はっきり言って多少右翼化してしまっているようにも思える。

それはさておいて、岡田英弘の世界史観自体はよい。頭のよさを感じる。アラン・ケイ的な天才性がそこにはある。

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