二階堂奥歯と死について

ピーター・S・ビーグルの絶版本『最後のユニコーン』(ハヤカワ文庫、学研プラス)を偶然知って、簡単に買えるか調べていたら、『最後のユニコーン』の関連本として二階堂奥歯の『八本脚の蝶』(河出文庫)が出てきた。

八本脚の蝶

目覚めなさい。現実から目覚め、「私」から目覚めなさい。もっと深く夢見たいのなら―。二十五歳の若さで自らこの世を去った女性編集者・二階堂奥歯。亡くなる直前まで書かれた二年間の日記と、作家や恋人など生前近しかった十三人の文章を収録。無数の読書体験や鋭敏な感性が生み出す、驚くべき思考世界と言語感覚。

『八本脚の蝶』という本の題名は、著者二階堂奥歯が書いていた Web 日記サイト名から来ている。そしてこの Web 日記サイトは今も公開されている。

わたしは二階堂奥歯の Web 日記サイトを全部読んだ(わたしは面白いブログについては全部読む習慣がある)。言葉だけの力が、人間の心をいくつもの蔦のように締め付けるさまを久々に感じた。

二階堂奥歯という25歳の女性編集者は、

──そんな人だった。


重要と思われる文章を3つ引用する。

2003年2月11日(火)より:

私が初めてタンポンを使ったのは小学校六年生の夏だった。

私は女性で、膣があり、排卵していた。私は犯されうる肉体を持ち、妊娠させられうる状態でいた。
私は、男性から性的な目で見られることが多かった。性的な目的で利用したいと思われることが多かった。

バスに乗れば触られ、図書館に行けば書架の間で性器を見せられ、部室では押し倒され、街を歩けば後をつけられる。
家に私しかいない夜にお風呂に入っていると、風呂場の窓の外でぴたりと止まる足音。
朝玄関から出ると落ちている、精液の入ったコンドーム。
雑居ビルの階段で突然後ろから駆けあがってきた男に羽交い締めされ胸を掴まれたこともある。
夜、たまたま人通りが絶えた近所の道で、四人の若い男が乗った車に突然横付けされ、無理矢理乗せられそうになったこともある。

私は常に抵抗し、警察を呼び、大声を出して相手を追いかけた、公の処分を求めた。私は今も常に催涙スプレーを携帯している。私の意志に反して私の身体を性的に利用しようとする者を私は決して許さない。
自分が性的身体を持っていることを自覚しないでいることは不可能だ。
自分が性的身体を持っていないふりをして、何も知らないで生きていくことは愚かだ。
それでは、毎日を切り抜けていけない。

私は貞操帯が好きだ。金属製の、オーダーメイドの、装着しての日常生活が可能な貞操帯を持っている。持っているだけでつけてはいないけれど、それがあるというのはうれしいことだ。
(多分それは、銃を隠し持つ人の気持ちに似ている。)
貞操帯の話をすると、好色な笑いを浮かべる男性がいる。
貞操帯は、「あなたは私に入れない」、「私を犯すことはできない」という意味なのに。拒まれていることに気がつかないほど、女性の身体は使用されうるものだと信じているのだ。鍵が与えられることを疑わないくらいに。

2003年3月30日(日)その1より(Web ページには「2002年」という見出しになっているが、2003年の間違い):

否定的な評価を断言する人がいる。何人か、知っている。
彼ら(そう、それはたまたま皆男性なのだが)は、平気で断罪する。
まるで、彼にその権利があるかのように。否定することはとても簡単なことのように。
多分、彼らは気がついていないのだ。自分たちが振り回しているのが真剣だということに。多分、彼らは気がついていないのだ。にこにこと微笑む「女の子」が傷つきうるということに。

攻撃されそうになると、私はかすかに微笑む。
(私に攻撃の意思はありません。)
誠意を持って、それでもどうにかほほえみを保って謝罪する。
(大丈夫です、あなたのしたことを、攻撃だとは、私はみなしていません。)

だってそれはおもちゃの剣のはずなのだから。だから私は傷ついていないはずだから。傷ついてはいけないはずだから。
当たり前の叱責。普通の謝罪。

「泣けよ」「あーっ、ほんとに何も出来ない奴だな、二階堂は。そうやって笑ってれば済むと思ってるんだろ。おまえね、いつか必ず失敗するよ。取り戻せないような失敗」「死ね。死んでしまえ」
「……そんなこと、言わないでくださいよー」
そして私は帰り道に、トラベルミンシニアを買う。一箱。

「あんたには現場なんかなんにもわかっちゃいないんだ」「いいか、俺の言うことを聞け」「あんたの考えなんか誰もきいちゃいない」
そして私はドラッグストアに立ち寄る。
「アタラックスP下さい、一箱。あ、やっぱり二箱」

「私、あなたが気持ち悪いの。大きなおっぱいって気持ち悪くてしかたがないの。だから、近寄らないで頂戴」「あなた、見苦しいわ」
「……はい、すみません」

2003年4月14日(月)その2より:

勿論私はがんばれる。
私は恵まれた環境にいるのにもかかわらず周囲の人を深く深く傷つけた。そして今も、傷つけ続けている。
死にたいなんて、甘えている。よくも言えたものだ。
明日まで生き延びることに必死だなんて。
生きるという当たり前のことをこれほど恐ろしがるなんて。

大学を出たら普通は働いて生計を立て、自活する。あたりまえのことだ。生きるのは、明日を迎えるのは、あたりまえのことだ。

そんなあたりまえのことが、私には、ものすごくがんばらないとできないのだ。
なんで、そんなことができないのだろう。
病気だから? でも、それは病気を治す気がないからだ。
ちゃんとがんばっていないからだ。治す気があるなら治っているはずだ。努力が足りないのだ。

勿論、私は連休明けまで生きていける。
(普通の人がごく普通にするように)。
勿論、私は化粧をし、着替えることができる。
(それは、雪山に裸で入る覚悟があれば簡単だ)。
勿論、私はエントランスカードをスロットに通すことができる。
(それは、手首に刃を走らせる覚悟があれば簡単だ)。
勿論、私は職場で挨拶し、細々とした雑事をてきぱきと片づけることができる。
(それは、頸動脈を突き破る覚悟があれば簡単だ)。
勿論、私は様々な連絡を取り、打ち合わせをし、トラブルを解決することができる。
(それは、首を吊る覚悟があれば簡単だ。)。
勿論、私は自分の意見を言い、人の意見を聞き、摺り合わせ、決断し実行することができる。
(それはガソリンをかぶって火をつける覚悟があれば簡単だ)。
勿論、私は接待をすることができる、にこやかに座持ちし、相手に気持ちよくなってもらうことができる。
(それは致死量の薬物を飲みほす覚悟があれば簡単だ)。

勿論、私は生きていける。
(それは18階立てのビルから飛び降りる覚悟があれば簡単だ)。

私はがんばれる。
まだ発狂してないし、ショック死もしていない。
それはまだ余力があるということだ。
私はがんばれる。明日も、明後日も生きる。そして、連休明けから出社する。
おろしたての春のスーツで、きちんとご挨拶して。
そして、普通に働く。普通の人が普通にするように。
それは、がんばってできないことじゃないはずだ。
勿論、私にはできるはずだ。
私はまだがんばれる。ちゃんと。普通に。あたりまえに。


生きている者が「自殺者の気持ちが分かる」などと言うのは恥ずかしいことだが、わたしはなんとなく二階堂奥歯が自殺した精神を1/4くらい想像できた。もちろんそれはただの想像であって、情報が足りないし、結局は本人にしか分からないし、想像でも1/4しか分かっていないことだ。

ありていに言うと、二階堂奥歯は大学を出て出版社に就職して、相変わらず本は大好きだったけれども、仕事がつらかった。仕事で、一部の男たちにひどい言葉を吐かれて、心が病んだ。その結果、2003年の4月上旬からゴールデンウィークまで1ヶ月間休職することになったが、大きい脳髄の中に強すぎる想像力を備えた奥歯は、ゴールデンウィーク後に復帰してまた同じ悪夢を見る未来に絶望した。そして自殺した。

「否定的な評価を断言する人がいる。何人か、知っている」という奥歯の日記の言い方には、見覚えがあった。あの持って回った言い方は、わたしだ。要するに、「こんな口の悪い奴がいた」というよくある話を言っているにすぎないのだが、奥歯の潔癖でキリスト的な倫理性は「なんでこんな人間がいるのか本当に分からない」と思っている。そして、「あなたのしたことを攻撃だとみなしていない」と謝る(と同時に、『聲の形』の西宮硝子のように微笑む)。そんな人間の心が、この社会の中で生きて病まないわけがない。

したがって、これは単純に、パワハラで1人の若い編集者が自殺した一事件だと思う。誰も表立っては言わず、まるで二階堂奥歯の育ちすぎた文芸的・幻想的精神が現実との乖離に悩まされ美しく自死していったように見せているが、そんな話ではない。それもまた、奥歯の倫理性が隠してくれていることだ。

自殺直前の日記中の「大学を出たら普通は働いて生計を立て、自活する。あたりまえのことだ」「そんなあたりまえのことが、私には、ものすごくがんばらないとできないのだ」という言い方からして、二階堂奥歯は就職後にはっきりと自死に向かったんだと想像する。ただ、それ以前は何もなく幸せで、自殺に至る要因は1つもなかった、というわけでもないだろう。奥歯の日記を読むと、奥歯が痴漢や最悪レイプ未遂のことさえ何度も受けたことが書かれている。そんな人間が、『O嬢の物語』を愛読書に挙げて女としてご主人様のモノになりたいとも思う。それについて、男のわたしはいかなる分析も許されまいし、実際できない。が、ともかく、一方では、男性の暴力性と男性に対するネガティブな感情があり、もう一方では、奥歯の倫理性と合理的知性とアブノーマルな性的関心があり、さらに第3の軸として、日記には語られていないが奥歯の恋愛遍歴(失恋も含むかもしれない)もあり、それらが仕事生活とともにぐちゃぐちゃに矛盾し合って、とても奥歯を生きづらくしたんじゃないかと想像する。

近年自死した女性として、別のページでも書いた琴葉とこもいる。そして、わたしの目には、彼女たちの背後にヴェーネ・アンスバッハがいる。だが、それについてはまだ語らない。


二階堂奥歯は、クリスチャンでないのに、シモーヌ・ヴェイユやキリスト者の本を愛読していた。これははっきり言ってしまえば、精神の危機を孕んでいると思う。

奥歯のような、自分で思考する能力と常識がある人間は、カルトにはまることも宗教信仰することもない。しかし、信仰なしに、宗教の深淵を覗き込み惹かれて掴もうとすることは、世界全体に対立して自分独りだけの宗教を持とうとするようなものだ。同じ信仰者たちという仲間がいて、そのコミュニティの中に己の存在価値を見出して、ぬくぬくと生きていかなければ、宗教的思想は危険だ(そして、仲間のいる宗教は危険以前にくだらない)。フランスの才女ヴェイユは独り高い思想を追って、拒食して、死んだ。ヴェイユの純粋で強靭な思想が、ヴェイユの肉体に勝ち、ヴェイユの肉体を食らい尽くした。

思想は、人間の肉体と精神を破壊しうる。そんな自己破壊的な思想に何の意味があるか、と思う人には、元から思想は意味をなさない。ドストエフスキーの『罪と罰』の結末は、あるいは天ぷらの『Seraphic Blue』の結末は、この問題に対する解答にならぬ解答だったとも言える。救済とは何か。それについてもまだ語らない。


わたし自身のことを考えると、わたしは多分何があっても自殺しない。死んだら虚無になるという恐怖があるから。

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