『鬼滅の刃』について

吾峠呼世晴の漫画『鬼滅の刃』について。本当は近く出る最終巻を待ってから感想を書こうと思っていたけれど、待ってもいられない。

『鬼滅の刃』は、TVアニメ版がヒットした頃、話題につられて、漫画を電子書籍で買って読んだみた。なかなか面白かった。

鬼滅の刃 1

『鬼滅の刃』は、一見すると少年バトル漫画のテンプレートに則っている。主人公・竈門炭治郎は最初、戦う理由が提示される(妹・禰豆子が鬼になったので、打倒鬼舞辻無惨になる)。主人公は、巨岩を刀で斬るなどのバトル漫画でありがちな修行(『ダイの大冒険』)を経て、ありがちな鬼殺隊試験(『ハンターxハンター』や『NARUTO』)になんとか合格して、隊員として鬼舞辻無惨の部下の鬼たちと戦う。「十二鬼月」という12人の中ボスがいて(『ジョジョの奇妙な冒険』第3部)、その中でも弱い「下弦」の鬼と苦戦しているところで、鬼殺隊のトップである「柱」がやって来て助太刀をする。

が、『鬼滅の刃』の書かれ方は、元ネタの面白さを目指して真似ているという風でない。修行のシーンはジャンプ漫画と思えないほど地味で、楽しさがない。鬼殺隊試験のパートは、同じ試験を受けたサブキャラたち(後に大事な仲間になっていく)との邂逅・共闘もなく、バラエティ豊かな試験内容もなく、主人公が独りで強い鬼と戦うエピソードだけ。

『鬼滅の刃』では、作者の倫理観が常に奥底から主張してきて、面白さよりも正義を優先してくる歪みとして、バトル漫画としての物語を矯正してくる。それが『鬼滅の刃』の個性である。『鬼滅の刃』の吾峠呼世晴は、『十二国記』の小野不由美と同類に感じられた。


鬼滅の刃 6

『鬼滅の刃』は、柱の1人である胡蝶しのぶの登場から輝く。

事実、しのぶが別の柱・冨岡義勇と登場して主人公・竈門炭治郎を助けたあと、鬼になった主人公の妹・禰豆子の処遇を裁判するため9人の柱が勢揃いするシーンは、作中で一番の盛り上がりだろう。しのぶは優しいように見えて鬼に容赦ない面もあったり、鬼の禰豆子を殺そうとしたりするが、裁判ではほかの柱と違って中立的な立場を崩さない。柱の暴力だけは諌める。かといって炭治郎および彼を無言で庇う冨岡義勇に友好的でもなく、基本は静観する。読者は、この内心が読めないキャラクターの登場におやっと思う。裁判が終わると、しのぶは問答無用で「でしたら竈門君は私の屋敷でお預かり致しましょう」と手を挙げて、主人公とその仲間を介抱する。しのぶの「蝶屋敷」には、てきぱきと屋敷仕事をするアオイちゃんやヒロインといってよい栗花落カナヲが住んでいて、6巻にしてこの漫画でもやっと女っ気がある空間が広がって、場は一転楽しくなる。これもまた、しのぶが屋敷の主として育て上げた空間である。

その後、日々鍛錬する竈門炭治郎が、真夜中の蝶屋敷の屋根の上に座って、突如隣に現れた胡蝶しのぶと対話するシーン。しのぶは「頑張ってますね」と耳元で励まして、「君は心が綺麗ですね」と褒める。炭治郎は突然「怒ってますか?」としのぶに問う。作中でしのぶが怒っている様子はまったくないが、炭治郎は「いつも怒ってる匂いがしていて。ずっと笑顔だけど…」と看破する。しのぶは淡々と、姉が鬼に惨殺されたこと、姉は死ぬ間際ですら鬼を哀れんでいたこと、自分は鬼が可哀想とは思えず少し疲れてきたこと、自分の代わりに炭治郎に「鬼と仲良くする夢」を頑張ってほしいことを語る。

正直言って、「鬼」という存在が何の隠喩にもならずただの邪悪として描かれている以上、深みがありそうなこのシーンも畢竟あまり意味はない。それでも清冽に感じられるのは、しのぶと炭治郎の高い倫理への希求である。その倫理観の内容はあまり重要でない(というより、『鬼滅の刃』には倫理観の内容がほとんど、ない)。

口下手だが正の思想が揺るがない立ち振舞をする冨岡義勇も、しのぶと同じくらい面白い。しのぶに「そんなだからみんなに嫌われるんですよ」と小言を言われて「俺は嫌われてない」と返すシーンは有名だし、わたしも好きだ。そこには傑作『進撃の巨人』の「超大型巨人の正体」が明かされるシーンのような奇妙な味わいがある。しのぶと冨岡義勇の二人で、『鬼滅の刃』は成り立っているようなものだ。

「腹を切ってお詫びする」鱗滝・冨岡も、無限列車編で人気を得た煉獄も、純粋に研ぎ澄まされた倫理への希求がある。この従来のバトル漫画の典型というべき戦闘狂の伊之助は分かりやすい対比であるし、彼ですら他人の優しさを「ぽかぽかする」と言って心を矯正させられていく。カナエとしのぶを愛し敬ったカナヲが、冨岡義勇やしのぶの倫理を持った男の子の炭治郎に心惹かれるのは当然の物語的な構造である。『鬼滅』を支配するのは人間倫理であって、「人間讃歌」(『ジョジョの奇妙な冒険』)でも「友情・努力・勝利」(ジャンプ漫画)でもない。そして高い倫理観には何の力もなく、鬼の残酷な無情の方がずっと強い。継国縁壱という過去の鬼殺隊最強キャラクターは、その苦しい現実に対してなんとか人間倫理を勝利させるための言い訳として用意された、くだらぬギミックにすぎぬ。

大ヒットしたTVアニメ版の『鬼滅の刃』に関してはあまり評価しない。映画アニメ版は観ていないが、同じスタッフたちによる作品なので大きな違いはないんじゃないかと想像している。アニメ版は、過去に TYPE-MOON 作品を多くアニメ化してその映像と丁寧な原作再現に評価が高かった Ufotable が制作している。確かに Ufotable のクオリティの高さは見られる。原作を丁寧すぎるほど丁寧にアニメ化している。その結果、台詞一言一言の重みが同じくらいになってしまって、原作『鬼滅の刃』の倫理への希求のこだわりがアニメ版では抜け落ちているように見えた。わたしにはアニメ版はほとんど退屈だった。


(2020/12/05 追記)

『鬼滅の刃』最終巻が出たので、電子書籍で買って読んだ。正直言って、終盤の無惨との戦いは退屈だった。無惨戦もその後の展開も、まったく評価しない。面白いと思えたのは猗窩座・童磨戦までだし、無限城決戦編前の柱稽古編もつまらなかった。バトル漫画としては『鬼滅の刃』は一級じゃないと思うし、もっと面白い漫画はすでにある。『鬼滅の刃』の魅力は上に語った通りの一点勝負なので、その要素が欠けていればどうしても物足りない。

ただ、禰豆子が正気を失った炭治郎に抱きついて泣きながら次のように言うシーンは、作者の苦しさの現れに思えてしまった。

どうしていつもお兄ちゃんばかり苦しいめにあうのかなあ どうして一生懸命生きてる優しい人たちが いつもいつも踏みつけにされるのかなあ
帰ろう ね 家に帰ろう

そう思うと、終盤の出来はさておき、一定のクオリティを維持して、大ヒットにまで花開かせて、週刊連載をやり遂げた作者・吾峠呼世晴には頭を垂れたい。

もしも炭治郎のような人間が実社会にいたら、確実に精神を蝕まれるだろう。『鬼滅の刃』の最終話はただの妄想だと、わたしたちはよく知っている。

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