濱口竜介『寝ても覚めても』、観直しました
濱口竜介監督の映画『寝ても覚めても』(2018)は、映画公開時に映画館まで観に行った。といっても、監督の濱口竜介も主演の東出昌大や唐田えりかも原作者の柴崎友香も、わたしは誰一人知らなかった。ジュンク堂書店で雑誌「ユリイカ」がこの映画の特集をしていたのを偶然見て、気分で観に行っただけだ。映画館は若い女やカップルばかりだったので、居心地が悪かった。主演男優の東出昌大のファンや、恋愛映画を観たがったカップルだったんだろう。
そのときの映画の感想は、当時、前の MacBook のストレージ上に書き込んだ。が、その内容はもう消え失せている。
最近、Amazon プライムビデオに『寝ても覚めても』が追加されたので、家でもう1度観てみた。映画館で観たときの気持ちを再度確認したかったのだが、退屈で途中飛ばしてしまった。はっきり言って、ひどい映画だと思う。しかし光るものはあり、特に終盤の展開は素晴らしくて感動する。そのためだけに観てほしい映画だが、それにしてもやはりひどい映画ではある。
主演の東出昌大と唐田えりかについては、今年(2020)になってスキャンダルがあった。『寝ても覚めても』に感動したわたしからすると、こんな恋愛映画の役に没入したらそんなこともあるのかなと思ってしまうが、実際のところは分からない。興味もない。彼らのスキャンダルによって、『寝ても覚めても』という作品にも変なイメージがついてしまったのは残念だ。
この主演の二人の演技についても、評価はよくない。一方で、二人以外の周りの役者はいい演技をしている。特に山下リオはいいよね。ただ、主演の二人の演技が上手ければもっとよかったかというと、そうでもないだろう。監督は恐らく意図的に、演技が得意でない二人を選んだんだと思う。
ヒロインの朝子(唐田えりか)が写真展で写真を観ていると、見知らぬ男=麦(東出昌大)が先を進んでいった。そして麦が写真展から出てエスカレーターを上がるとき、朝子もまるでついて行くようにエスカレーターに乗る。外に出て、麦が向こうへ去ろうとしたとき、少年たちの爆竹遊びで大きな音がして麦が振り返り、朝子と向かい合う。なぜか二人は自己紹介をして、そのままキスをする。
──これが物語の最初である。それを回想シーンとして聞かされて、サブキャラクターが「そんな馴れ初め、この世の中にあるかいボケ」と突っ込むのだが、本当にその通りだ。『寝ても覚めても』は全編を通して、こんな無茶苦茶な展開や、気持ちの悪い人間関係のシーンが続く。主演の二人の演技力がよくないせいで、余計見ていられない。ひどい映画というのはそういうことだ。
一方で、いいシーンもある。序盤、サブキャラクターの串橋(瀬戸康史)がマヤ(山下リオ)の下手なチェーホフの演技録画を見て、真剣に怒って空気が凍るシーンがとてもよい。ここは監督の才気を感じる。中盤は大概つまらないが、終盤になって麦が朝子の前に再登場して、tofubeats の象徴的で不吉な電子音 BGM が流れるシーンからは、面白くなる。人間が壊れていく。関係が壊れていく。修復はできない。
主人公朝子は、自己中心的な最低の女である。しかし、最低な女でも、悪意がないとしたら、彼女には彼女なりの幸せがあってよいはずだ。
復讐するは我にあり、我これを報いん(ローマの信者への手紙12-19)
これは、トルストイの『アンナ・カレーニナ』の有名なエピグラフだ。知っての通り『アンナ・カレーニナ』は、不倫して社会的に抹殺されて線路に飛び込んだ女の物語である。人の倫理的な罪を裁く権利が人にあるのか? それはおこがましいことではないか。『寝ても覚めても』の終盤だけは、ほとんど文学的ですらある。人は人を裁けないし、赦せもしない。しかし、海の波や川の流れを見てその音を聞いてみろ。森羅万象は人のどんな罪でも赦している。
雨が明けていく中、朝子が亮平(東出昌大)を追いかけて長い坂道を駆けていく日本的なロングショット。雨のせいで水嵩が増した川の荒い流れを、家の2階から眺める少し離れて立った二人の静かなシーン。このへんの表現力に頼らない深い表現と感動的な赦しを見ると、傑作だとすら思う。残念ながらひどい部分が多すぎるため、何よりもまず失敗作だけれど。
もし、恋人や家族が最低な裏切りをしたとき、その人を赦せるか? その人を信じられるか? 『寝ても覚めても』は、それを赦しなさいという話ではない。一生赦せない。一生信じられない。それでも共に生きると決めた。それは赦しのとても美しい物語かもしれない。だが、日本的な悪いところが溢れ出たような気持ち悪い、「臭いものに蓋をする」物語かもしれない。そしてその2つは、別に矛盾しない。