映画『ドライブ・マイ・カー』、観た

濱口竜介監督の映画『ドライブ・マイ・カー』(2021)を観た。


濱口竜介監督については過去作『寝ても覚めても』(2018)を映画館で観に行ったことがある。感想も書いた:

ひどい映画だと思う。しかし光るものはあり、特に終盤の展開は素晴らしくて感動する。

だから、濱口監督の新作、しかも公開前から「カンヌ国際映画祭」で脚本賞・国際映画批評家連盟賞・エキュメニカル審査員賞・AFCAE賞を受賞して評価の高い『ドライブ・マイ・カー』に対して、わたしは否が応でも期待していた。

『ドライブ・マイ・カー』は上映時間179分、約3時間というとても長い映画である。それでも、濱口監督の出世作『ハッピーアワー』(2015)の317分(5時間強)に比べれば大したことはないみたいだけれど、『ハッピアワー』はわたしは未視聴だ。ともかく『ドライブ・マイ・カー』を映画館で観ていて、後半ずっとトイレに行きたくて集中できなかった。集中して観れたとは言えない。これは映画に対して本当に申し訳なかった。

その上で、いつものように一言で『ドライブ・マイ・カー』の感想を言うと、面白かった。『寝ても覚めても』のような物語展開の「ひどさ」はない。濱口監督らしい「光るもの」は随所に見られる。欠点は、長すぎることだ。


映画『ドライブ・マイ・カー』は、村上春樹の短編集『女のいない男たち』(2014)中の一編「ドライブ・マイ・カー」を原作とする。映画を観たときには原作短編を未読だったが、この感想を書くにあたってある程度の知識が必要と思ったので、今、原作短編だけは電子書籍版を買って読み終えた。

原作も読むと分かったが、濱口竜介の映画版は、原作の内容をかなりかさ増しして変更も加えている。村上春樹の原作は、ある深い1つのテーマに収束するように周到に計算され描かれている。しかし、映画は原作のテーマをいくらかずらし、かつ、いくつか別のテーマも配している。正直言って、原作の方が人間と人間関係の深いところをちゃんと突き刺している。

原作短編は、中年男優の主人公・家福が、美人女優の妻を失って、妻が生前浮気していた俳優の男・高槻と飲んで、亡き妻の心の内を解こうとする。そのときのエピソードを、主人公・家福が、専属運転手の若い女・みさきに話すという形式の短編である。村上春樹の小説や翻訳本をいくつか読んできたわたしは、代表作の大長編『ねじまき鳥クロニクル』のような「いなくなった妻の心の謎を探る」物語や、初期短編集『回転木馬のデッド・ヒート』のような中年男の軽いビターな(だが、何かしら人生の重要な面を示唆する)物語を思い出させた。ともあれ、非常に村上らしい短編であり(村上らしくない短編の方が珍しいが)、そのテーマも(表面的には)登場人物に言わせている。テーマの1つは高槻の特徴的な長台詞であり、濱口監督の映画でもその台詞ほぼそのまま高槻に喋らせている。そこから発展したもう1つのテーマはみさきの最後の台詞であり、濱口映画でこれに対応する部分は映画オリジナルのストーリーとして移し変えられている。

映画の物語は、原作短編だけでなく、『女のいない男たち』中のほかの短編の影響も受けている。短編「シェエラザード」では、中年女が男とのセックスのあと、男に対して『千夜一夜物語』のシェエラザードのように物語を語る。それは、中年女が女子高生の頃に、好きな男子の家に何度も空き巣をした話だった。その奇妙な語りはそのまま、『ドライブ・マイ・カー』の家福の妻のセックスのあとの語りとして流用されている。


いい加減、映画について語ろう。原作同様、映画の主人公・家福は、仲のよかった妻が裏で浮気していたという心の謎に苦しむ。妻の不実は、近代小説がもっとも得意としてきた主題であり、『寝ても覚めても』で女主人公の同情しづらい不実を誠実に描いた濱口竜介にとっても得意な主題なんだろう。妻の心の謎に、分かりやすい答えは見つからない。浮気相手だった高槻は、最後に家福にこう語る。

「……でもどれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても自分がつらくなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。……」(村上春樹「ドライブ・マイ・カー」)

映画では、主人公・家福は俳優だけでなく、演出家もしている。チェーホフの『ワーニャ伯父さん』をいろいろな言語話者の役者で演じてみることを、家福は試みる。劇中劇というメタフィクショナルな仕組みは濱口監督が繰り返し使っている技法で、『寝ても覚めても』でもサブキャラクターにチェーホフ劇をやらせていたし、『ハッピーアワー』も未視聴だがあるらしい。『ドライブ・マイ・カー』でも変わらず、劇中劇部分が、凡百の映画と一線を画す緊張感を漂わせて面白い。そもそも、元から『ワーニャ伯父さん』という劇がよい。

ソーニャ「ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命がわたしたちにくだす試みを、辛抱づよく、じっとこらえて行きましょうね。今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。そして、やがてその時が来たら、素直に死んで行きましょうね。あの世へ行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなに涙を流したか、どんなにつらい一生を送って来たか、それを残らず申上げましょうね。すると神さまは、まあ気の毒に、と思ってくださる。その時こそ伯父さん、ねえ伯父さん、あなたにも私にも、明るい、すばらしい、なんとも言えない生活がひらけて、まあ嬉しい! と、思わず声をあげるのよ。そして現在の不仕合せな暮しを、なつかしく、ほほえましく振返って、私たち――ほっと息がつけるんだわ」(神西清訳、チェーホフ『ワーニャ伯父さん』

これは『ワーニャ伯父さん』中の有名な台詞だが、有名になるのも、濱口監督がこの台詞を劇中劇で採用したくなるのも、当然だろう。(引用していて気付いたが、わたしの好きなフィリップ・K・ディック『暗闇のスキャナー』におけるドナの感動的な台詞は、ソーニャのこの台詞が元ネタか、そうでなくともまったく同じ色合いをしている)

多言語演劇という作中の試みが成功しているかは怪しい。ただ、喋らずに手話で表現するソーニャ役だけは成功している。このあたりはすべて原作になく、濱口監督の映画版オリジナルの要素だが、普通に感動を呼ぶ。

と同時に、『ワーニャ伯父さん』のソーニャの台詞は、本来の「ドライブ・マイ・カー」のテーマとかなりずれている。村上春樹は無論、「このつらい運命をじっとこらえよう。そしてあの世で、神にどれだけつらかったか申し上げて、同情してもらって、そのあと幸せな日々が(天国で)迎えられるようになる」という宗教的空想は信じていない。わたしも、そしてこの台詞を戯曲に書き記したチェーホフ本人も恐らく、信じていない。チェーホフはただ、この美しく儚い宗教的空想を抱かざるを得なかった登場人物の気持ちに、同情しているんだ。しかし、『ドライブ・マイ・カー』の主人公たちは奇跡のような救済にすがるタイプでないし、彼らが抱えている問題はそんな奇跡で解決する問題と異なる。劇と劇中劇との不協和音が生まれているのは、少し気になる。


映画『ドライブ・マイ・カー』は、原作テーマの扱いに疑問点が見受けられる。そして何より、3時間にするほどの話とは言いづらく、長すぎて、繰り返しの視聴には堪えられない。そういう欠点はあるが、総じて、面白かった。

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