ドストエフスキー『罪と罰』について (WIP)
自分の生涯の作品といえば、恐らく**ドストエフスキーの『罪と罰』**になる。手元にある新潮文庫版の本の刷日付から類推すると、小学6年生か中学1年生頃に読んだ。そして中学1年のとき、僕はこの小説の主人公ラスコーリニコフと同じように人生をあやまった。つまり、この長編小説は僕を救済したと同時に惑わせたらしい。
I
帝政ロシアで医師の次男として生まれたフョードル・ドストエフスキー(1821 - 1881) は、20代のときにゴーゴリ風のヒューマンドラマの中編『貧しき人々』(1846) で作家デビューした。これは、貧しい中年官吏と少女とのお涙頂戴の書簡体小説だが、その躁鬱で饒舌に感情が溢れ返るような文体は後年も続くドストエフスキーのものだ。当時ロシアを代表する批評家ベリンスキーはこの中編を激賞して、恐らくドストエフスキーを有頂天にさせただろうが、この批評家は以後のドストエフスキーの初期作品にはごく冷ややかだった。
『貧しき人々』後のドストエフスキーは、その作品群によって作家としての評判を失墜させつつ、密かに空想的社会主義サークルに加入した。空想的社会主義とは、マルクスらの共産主義以前に見られた「科学的理論付けがまだ弱い社会主義思想」のこと。いかなるイデオロギーも弾圧していたらしい当時の帝政ロシアの官憲は、ついにドストエフスキーら政治サークルのメンバーを逮捕した。ドストエフスキーには死刑判決が下された。そして執行直前に、特赦によるシベリア流刑への減刑が言い渡された。
暗く長い囚人時代、彼は聖書に触れている。
5年後、ドストエフスキーはシベリアから帰ってくると、ふたたび小説を書き始めた。
まず長編『死の家の記録』(1860) で、地味でリアリスティックにシベリア流刑の暗鬱な日々を描いた。
次に中編『地下室の手記』(1864) で、中年官吏が家にひきこもって脳内で理屈と言葉をこね回し続ける物語を記して、ドストエフスキーの思想表現、「新しい世代」の人の反社会的絶望、饒舌な言葉を駆使した悪夢のような精神病理学を開花させた。
そして、ドストエフスキーの名を世界文学史に残させた長編『罪と罰』(1866) が生まれる。主題も文学史上ほとんど空前といっていいほど深く、物語としても大作で、描写は冴え渡ってたびたび散文詩の域に達して、登場人物の造形もバルザックの全盛期とゴーゴリの全盛期を重ね合わせたかというほどだ。これが、その後出していく『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』といった傑作長編群の出発点となった。
## II
『罪と罰』は、主人公の青年ロージャ・ラスコーリニコフがお金に困って質屋の老婆を斧で殺す話である。
ロージャは、老婆を殺すか殺すまいか悩み、朦朧として町をさまよっていた。そして、ふっと外で昼寝をして、次のような悪夢を見る──
夢の中で、ロージャはまだ子どもだった。父親と一緒に外にいた。酔っ払いが自分の飼い馬を駄馬と罵っていじめていた。周りも囃し立てた。誰かがやりすぎだと言うと、酔っ払いは自分の馬だから何をしてもいいと言い返した。幼いロージャはそのひどい光景を見て父親に泣きついた。父親は「悪ふざけをしているんだ、行こう」と慰めた。酔っ払いと群衆はいじめ抜いて、ついに馬を死なせた。
ロージャはこの悪夢から目を覚ますと、とても人殺しなんてできないと思い直しながら、家に帰る。その帰途、ロージャは偶然とある会話を小耳に挟む。老婆の妹がちょうど明日の晩、用事があって家におらず、老婆一人きりであるということを示す会話を。ロージャはもう何も考えられなくなって、実際に翌晩、老婆を殺す。
人間の人生なんてそんなものだ。偶然という名の運命は、人を容易に本物の悪夢へ引き下ろす。ロージャは悪人だから殺人ができたのか? だが、あんな弱く優しい心を持ち、哀しい悪夢を見てしまう悪人とは一体なんなのか? 本当の悪人は絶対にリスクのある犯罪をしない、または、何年もの間犯罪を隠匿する能力がある。ロージャは善人でもないが悪人でもなく、ただ罪を犯して罰を受けただけだ。
殺人する前に、酒場で、ロージャは、酔っ払った中年官吏マルメラードフと邂逅して話をしている。マルメラードフは『貧しき人々』の主人公をどことなく思わせる。赤貧なせいで何に対してもへりくだるようになって、絶望から乱酒に逃げるようになって、家族を何よりも愛していて大事にしているのに家族の生活費さえ酒代に費やして、金がなくなると家に戻って妻に怒られて引っ張られながら酩酊で泣き笑いし続けるような、頭のおかしくなったこの男を前に、ロージャが何を思ったかは描写されていない。
そして殺人の後、マルメラードフが馬車にひかれて瀕死の重症を負っているのに遭遇する。ロージャは、自分の犯した殺人行為によって精神を極度に疲弊させてほとんど夢遊病者になっていたが、なぜかこの事故に対して突如活発になって、マルメラードフを本人のアパートまで連れて行き、自分のお金で医者を呼ばせる。
だが、マルメラードフに助かる見込みはなかった。マルメラードフの家族は、仕事のために別居していた娘ソーニャを呼びに行く。やって来たソーニャは痩せて小さなブロンドの少女で、父親が仕事もせずお金を酒代に費やしていたから、代わりに家族のために体を売っていた。
マルメラードフは死ぬ。ロージャは葬式代をマルメラードフ家にいくらか施したあと、家に帰る。
これが、殺人を犯した罪人のロージャと貧しい家族のために娼婦をしている少女ソーニャの出会いだ。ソーニャは「マグダラのマリア」のような存在なのだが、この容赦ない暗く不幸なだけの世界の中に1人の聖女が描出されている恩寵が分かるだろうか。いや、恩寵というよりも、この異常が。のちにロージャは、「ソーニャが運河にも身を投げず、精神病院にも入らず、淫蕩生活にも落ち込まずに、その清い心を保っていられるのは、神への狂信だ」と確信する。敬虔なのではない、狂信である。それでも、この世に神は存在しないとしても、愛深い聖徒は存在するとしたら? 私の人生の希望は、この世界には『罪と罰』のソーニャや『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャがいるだろうということにしかなかった。それが私に対する恩寵だった。
なぜラスコーリニコフは老婆を殺したのか? ラスコーリニコフはソーニャに殺人の動機を告白するのだが、まるで要を得ない。ニーチェ的とも言われる強者・弱者思想をはじめいくつもの動機を説明していて、結局お金に困っているからではないらしい。──「なぜXXしたのか?」知らない、知らない、知らない。ずっと考えてきた、いろいろな理由を思いついてきた。分かっている、私が悪いんだ。しかし、なぜこの罰はいつまでも私の影をついてくるのだろうか?
ラスコーリニコフの精神は崩壊したが、崩壊したから人を殺したのでもなく、人を殺したから崩壊したのでもなく、人を殺した罰から崩壊したのである。ユゴーが『レ・ミゼラブル』 で「永劫の社会的処罰」と呼んだ主題、トルストイが『アンナ・カレーニナ』で「復讐は我(神)に任せよ、我は仇を返さん」と聖書から引用した主題がここにもある。ロージャが受けた悪夢のような罰を、読者は延々と読まされる。どうすればこの罰から救済されるのか? この長編が畢竟教えてくれることは、どうもならないという絶望だった。
ドストエフスキーの長編はすべて、人間には解決できない人間的絶望が執拗に表現される。ソーニャの精神は理屈ではない、理屈はロージャを救済してくれない。
III
ドストエフスキーの他長編とくらべた『罪と罰』の特殊性の1つは、結末にある。『白痴』の破滅、『悪霊』の混沌などと違って、『罪と罰』の結末は読者に強い説得力を持って光を感じさせる。『白痴』や『悪霊』の救いようのない結末は、ある意味でそれらの作品の失敗でもあると同時に、ある意味で主題の必然的結果でもあった。『罪と罰』の結末の計画の1つに、ロージャを自殺させるというものがあったらしいが、ドストエフスキーは選択しなかった。もし選択していたら、私は『罪と罰』をこれほど好きになれなかっただろう。
人は信じたいものを信じる。私は『罪と罰』の結末を信じて、地下室から出てきた。出て来た外の世界で味わったのは、単純に言えば『白痴』の花瓶割り事件みたいなものだった。何度も心が折れた。なるほど、この罰に救済などないのだ。
『罪と罰』の最後の段落を読んだだろうか。今私たちが気軽に読むと、いかにも大長編のまとまりのいい結語に見える。しかし、ここで課せられた宿題がどれほど重くしんどいものか──。