批判について
1 批判
Web ではどんなものであれ、口さがない批判を目にする。人間みな善人でないし、Web が誰でもほぼ何でも書けるメディアである以上、そういうものが氾濫するのは仕方ない。そういう口さがない批判に対していやな気分になった人が、批判に反論する。その反論のピントがずれていることが気になる。
どんな作品でも、ある一面だけを見れば、より優れた別の既存作品が必ずある。だから、その点を突いて批判するのは簡単だ。でも、ポテトチップスを「チョコと違って甘くないから、駄目」ということにどんな意味があるのか? わたしは極端な例を出して煙に巻いているつもりはない。「確かに、甘いものを食べたいときなら、ポテトチップスという気分じゃないね」と納得しているんだ。しかし、それは批判でないし批評でない。まっとうに批判するなら、まず「作品はどんな観点で批評されるべきか」を探る必要がある。
たとえば、1つのポルノ作品がある。「ポルノの物語がリアルでない」という批判は、リアルでなくてもエロいなら意味がない。しかし、リアルにすればもっとエロくなったのにその努力を怠ったとすれば、その批判は意味がある。この境界線はなかなか難しい。
わたしたちは欠点のある作品を鑑賞したとき、感覚として何かが気に食わないと思う。その何かを言語化したいと思う。結果、ポテトチップスに対して「甘くない」と批判するような人がいる。実は、感覚としては別のところに不満を持っていたけれど、分析・言語化に失敗して外れた批判をしてしまったのかもしれない。あるいは本気で、ポテトチップスは甘いお菓子にすべきと信じているのかもしれない。こういう「批判のずれ」問題は確かによく発生するんだ。批評家は、細心の注意を払わなければならない。
口さがない批判にはもちろん「批判のずれ」があるが、それに対する反論もまた「批判のずれ」があることが多い。歴史に名を残す大傑作でもなければ、ほとんどの作品にはどこか欠点はある。感覚はそれを敏感に理解する。そして言語化しようとして失敗するわけだけれど、どれだけ失敗しても砂漠の中の一粒の砂くらいは正しさが残っている。その一粒の理も無視して、反論しようとして同じ穴の狢になっている。一番よいのは「批判のずれ」を直して、一粒の理だけを使って正しい批判にしてあげることなんだ。しかしこれは非常に難しい。誰もやりたくはない。やってあげたところで、批判者も「確かに間違っていた。あなたの表現が正しい」と受け入れてくれる可能性は低い。納得してくれるような人なら、最初から、「批判のずれ」がある言説を公に口に出したりしない。
「その人の神によって、その人の意見を撃つ」という考え方は、古くからある(正確な歴史は寡聞にして知らないが)。批判とは本来そういうものだ。それ以外の反論は批判でなく、ただ、自分の神を持ち出しているだけだ。異なる神同士で戦っても、異なる物理法則同士で戦わせるようなものだ。
2 悪感情のスノーボール
最初は誰も怒っていない。誰かが少し評価するか批判するコメントをしたのを契機に、それに反する思いを持つ人が少し嫌味の効いた言い方を投げかける。それを聞いた別の人が、突然の嫌味に気分を害して、さらに口悪く反論をぶつける。こういう悪感情のブーストは、カオス理論の初期値鋭敏性のように、最初は全然大したものでないはずでもスノーボールしていく。わたしは数日に1回くらいその風景を見せられている気がするし、見るたびにいやになる。しかしこれはもう人の業なのかもしれない。
3 数字戦争ゲーム
旧「2ちゃんねる」の「ゲーム業界、ハードウェア」(ゲハ)板と「アニメDVD・BDの売り上げを見守るスレ」で有名なように、作品・商品のファン・アンチが売り上げの数字で煽り合い、嫌っている作品のファンの人格攻撃を繰り返す。ゲームハード、ゲームソフト、アニメDVD・BDの売り上げランキングの数字戦争が伝統的だったが、近年では動画配信者の同時接続数・登録者数・再生数での数字戦争も活発。これらは、2ch の裏路地で語られていればまだましだったが、「2ch まとめブログ」が増幅器拡声器の役割を果たしている。
彼らのことを「数字戦争ゲーマー」とでも呼ぶ。既存の適切な言葉がありそうだが、知らない。「売上厨」という言葉はあったが、動画配信者の再生数で戦争ゲームしている人たちも含めると、適切でない。小学生がカードゲームのカードに書かれた数字の大小で戦うゲームをするように、彼らは作品の何かの数字の大小で戦う。コントラクトブリッジであれ、マジック・ザ・ギャザリングであれ、数字の大小だけのシンプルなゲーム性でないから面白いのだが、彼らはトランプゲームの戦争のように戦略性の欠如したゲームを死んだ脳でやっている。
数字は絶対的な証拠だから、相手を打ち負かすために使おうとするのは分かる。しかし、特定のアイドルグループの曲が並ぶオリコンや、定期的に薄っぺらいベストセラー本が入る書籍ランキングを思えば、売り上げなんてくだらないことをわたしたちは知っている。いや、彼らは知らないのかもしれない(彼らの何割くらいかは実年齢もまだ子どもなんじゃないかと思う)。
「XXの数字、YYの1/10じゃねーかwww」みたいなコメントがある。数字が悪すぎて、食っていけるか・黒字か・次の作品も作れるか心配するのは分かる。が、それをアンチの立場で煽るのは、他人の貧困を煽っているので下賤な感情だと思う。そもそも、他作品との相対的な数字に意味はない。
こんな当たり前の話をしているのも、数字戦争ゲーマーが大きな問題だと思っているから。アニメ、ゲーム、動画配信が一番ひどいが、スポーツ・アイドル・映画などどんな分野でもこの問題はあるし、今後新しく流行っていく分野でも同じことが起きる。この世に一定数の馬鹿がいて一定量の馬鹿の声があるのは仕方ないが、数字戦争ゲーマーは声の大きさと発言内容のひどさが看過できる次元を超えている。
前節で書いた通り、悪感情はぶつかり合って増幅してスノーボールしていく。数字戦争ゲーマーも、最初はまともだったが、まともじゃない場所に行ってみれば必ずそこには数字戦争の煽りがある。それを見て怒りを心に溜めても、数字は絶対的な指標だから即座に反論はできない(そもそもその数字に特に意味がなければただの数字遊びにしかならないが)。溜めていた怒りは、数字が逆転した瞬間にリベンジのトリガーを引く。そのリベンジだけを見た人がさらに怒る。こうして数字戦争は永遠に繰り返され、まともじゃない場所は永遠に続き、それどころか拡大再生産していく。数字戦争ゲーマーも一人一人は、いずれ大人になってふと我に目覚めて悪業をやめるかもしれないが、その代わり新しい子どもが入ってくる。こんな悪夢をいつまで見させられるのか?
解決方法の1つは、数字戦争のネタになりやすい数字は公開しないこと。YouTube は元々動画の低評価数を公開していたが、わざと非公開にした。Netflix は以前、ランキングも再生数も表示せずリコメンデーションだけを使っていた──2020年からランキングを表示するようになったらしいけれど。データを隠すというのは基本的によいことでないが、個人情報のように、公開すると公害がある場合は除く。しかし、Netflix が結局ランキング機能を付けたことを見ても、ビジネス的に数字を見せた方が利益を生むなら、どこかで数字戦争ゲーマーが暴れることなんてそのどこかが管轄すべき問題でしかない。その考え方が間違っているとも思わない(それはそれとして長期的に正しい選択かは分からないが)。